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2009年7月

“派遣切り”の責任はどこにある?

リンク: “派遣切り”の責任はどこにある?.

経団連と、与党が中心に進めてきた。

国際競争力という大義名分によって生み出された問題だ。

下がり続けてきた労働分配率に対し、

経営者、投資家報酬は増え続けている。

しかも、生成優遇され続け、内部留保まで溜め込み、

何かあれば、という建前の文句は、

実行に移されず、

経営者、投資家のあくなき利益、お金、権力の追求は、

資本主義の大原則に従い、労働力の搾取を大掛かりにおもなわれ、

挙句の果てに、税金で値引きをするとんでもない政策実現を財界出身総理によって実現された。

それに、よって守られたのは、大手経営者と投資家だけである。

それによる増えた借金は消費税と言う形で、国民に付回すというのは蟲が良すぎるのではないだろうか。

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現実路線の民主をどう見る?

リンク: 現実路線の民主をどう見る?.

国際的な関係についての判断としては、慎重にならざるを得ない。

確かに政権の交代で不安になる部分も多い。

しかしながら、政権交代しないでこのままで行くことの方がもっと不安は大きい。

現与党からは財源の裏づけがないと言われるが、

当たり前ではないか、、、、、

なぜなら、財布を戦後握り続けた政権が一度も変わっていないのだから、

しかし、借金を増やし続け、

減らした実績のない政権のいえることではないのではないだろうか。

また、バブル以降の富裕層への優遇路線を続け、

挙句の果てに、消費税の増税が義務でもある可能ような演出は、

あいた口がふさがらない。

消費税が導入された理由は本来福祉などの充実とされていたはずであった、しかし、充実されたというよりは不安が拡大しています。

消費税導入は3%で1985年、1997年に5%に

片方で大企業などが収める法人税率89年に42%→40%に引き下げられた。

その後も90年に37.5%

98年に34.5%

99年に30%と引き下げられました。

これ以外に、研究開発減税、外国税額控除、受取配当益金不算入制度なども入れると、単純に法人税だけでは負担率はみることはできません。

消費税導入以来消費税の累計は188兆円くらいといわれていますが、この同じ間に法人三税(法人税、法人住民税、法人事業税)の税収は累計で150兆以上減っています。

大して家計は所得税の定率減税は

06年に半減、07年に全廃で約3.3兆円増税がされました。

この定率減税は99年に実施されましたが、景気が悪くなったための景気対策として行われました。

このとき、法人税の引き下げ、所得税の最高税率の引き下げと一緒にされましたが、

景気回復を理由に定率減税だけが撤廃され、

大企業、富裕層の減税分は継続されているのです。

結局、取り決めをする席にいないものが貧乏くじを引いているような形になっています。

これだけでなく、証券優遇政策によって、

2002年までは26%でした。

2003年に20%に減らし、

2007年までは10%%に減らし

暫定といいながら、ガソリンの暫定税率と同じようにづるづるといこうとしている。

また、消費税にはとんでもないカラクリがあります。

これは、消費税は輸出するものについて、原産地課税ではなく、仕向け地価税の原則から、消費税から輸出分が還付されています。

全体で約3兆円、上位10社で1兆円近く、還付されています。

これは消費税と連動しているため、消費税が上がれば、還付も上がる。

結局、経団連が消費税を社会保障のために上げるべきだという言論はこの裏が存在するからでしかない。

これらは、政権与党のやった結果なのです。

その評価を棚に上げないでほしい。。。。。

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民主主義とは

wikiから


民主主義(みんしゅしゅぎ)、または民主政 (democracy)とは諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。


と書き始められていますが、


近現代の民主主義として、


民衆による意思決定、権力の分立、自然権を前提とした立憲主義による民主主義は、あくまで君主政や寡頭政、独裁政よりもましな制度という批判は強く、そこにおいても大局観や広い視野、教養を併せもつエリートの存在が不可欠であるとされる。

と書かれていますが、

この文章の中にはエリートが不可欠とされているが、

現在の日本の政治腐敗はエリートの存在がないということではない。

このエリート思想こそ腐敗の現況なのではないだろうか。


知識、教養を持つことだけでは不十分なのではないだろうか。、

知識と教養はあくまで道具であるということを忘れている。

この道具を有効に使える人間が上記で言うエリートであるとはいえないのです。


君主制と民主主義について大きなちがいとしての認識についても、ほとんど理解されていないのではないだろうか。

議会制民主主義は多数決である、なんて一言を言っていた政治家がいたが、あいた口がふさがらなかった。

君主制と、民主主義の違いは、民衆の多数決によって選ばれた政権によって行われるものは、すべて民衆が責任を負わなければならないという一点である。

君主制のもとで行われた政治の失敗はすべて他人の責任とすることができる。


このことから、現在自民党の中で繰り広げられるゴタゴタは民主主義というものを壊している象徴であるように思える。


これは、日本だけのことではない。

G8からG20への流れも同じである。

先進国だけで今まで決められてきたルールを新興国などにも押し付けてきたのが現実ある。

それは、民主主義が資本主義によって影響されていたことが明らかになっただけである。

要するに民主主義的資本主義ではなく、資本主義的民主主義というべきではないだろうか。


民主主義というものもひとつの道具であるだけに過ぎない。

しかし、この道具の使い方をきっちりと教育していかない限り、このシステムを使いこなすには至らないのかも知れない。

そこにはエリート思想というもが介入しすぎれば、現在のような同じ失敗を犯すのではないだろうか。


wikiのエリートの存在は不可欠であるというのは、不必要で、
それよりも、責任を負う民衆こそが必要なのではないだろうか。

民主主義の民衆の意思決定は責任を負うこととセットでなければならない。


あえて、エリートを入れるのであれば、責任を負うエリートとすべきではないだろうか。

責任を負わないエリートは不必要である。。。。

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ハードとソフト

早大OB集団が株価操縦
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=903642&media_id=10

ハードがいくら優秀でも、それを使う人たちのソフトが悪ければ、悪用されるという証明のような犯罪です。

資本主義の優劣社会が浸透し、

おかしな事件が増えた。


中国の人との会話で、日本人のおかしいところはどこですか。

と聞くと、

間違っても、子が親を、親が子を殺す犯罪は考えられない。

確かに強盗などの犯罪は多くあるが、その大半が、生きるために行う犯罪であることが多い。

核の問題もそうだが、優秀なハードというものは、危険性が付きまとう。

それは、料理人の包丁と同じように、

いくら、包丁というハードが優秀であろうと、

料理人の使う包丁と、殺人者の使う包丁では、大きな違いがあるが、

持っている道具は同じなのである。

また、逆にハードの優秀さに頼っている現代はさらに危険な状態へと向かっているということになる。

ハードというものは、使う人間の使い方一つでよくも悪くもなるということである。

それは、そのハードを使うときに、そのものを使う怖さを知っているかどうかということである。

そのハードが生み出す、危険性をないとする論調は、
先のこんにゃくゼリーなどでもわかるように、ハードが悪いからということでハードを悪とする論調である。

であるならば、車や包丁、薬などもすべて悪となる。

これらで、なくなった人だけでいえば、こんにゃくゼリーの比ではない。

この問題が大きくなった原因は文明社会の自己都合的解釈でしかない。

今回の事件もそのひとつである。


(アントニ・ガウディの直筆の本の中に、ハードだけでは付加価値はつかないとかかれている。)


人は怖さをわすれたとき、理性を失い欲望の赴くまま行動する。
怖さを知り、理性を働かせ知性を身につけていかなくては、人は動物にも劣る下等な生き物へとなるのではないだろうか。

現代社会は、恐怖というものがかんじられなくなってきている。

それは、臓器移植法案にも現れている。

生きるということは生存権として当然の権利であるが、
提供者にたいして、拒否権という言葉を使うあたり、提供者側への生存権が侵されているという認識が欠如していると言わざるを得ない。

医療の発達は、今や万能であるかように感じられているが、
人はそれによって死というものから逃れるという解釈はしてはいけないのではないだろうか。

安心・安全というものは人を堕落させるために使われてはならないのである。

動物には扁桃体というものがある。

これが恐怖を感じるところである。

猫の扁桃体というものを働かなくさせた雄、雌それぞれ二匹を同じ檻に入れたところ、完全にそれらの猫は欲望をむき出し、目も当てられない状態になったという。

恐怖を消すということは理性が働かなくなるのである。


ハードとソフトのなかで、本当の必要なことは、ハードの危険性を知るべきではないだろうか。

また、その危険性を悪用することに対し、罪を重くしなければ、いけないのではないだろうか。

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臓器移植法案、、、、、

法律によって、脳死を人の死と解釈できるようになった。

これによって、臓器移植を待っている人たちにとっては、

今後の海外移植の規制を目の前に控え、わずかながらの希望の光のように見える。

しかし、逆に提供する側にたたされる人たちにとっては、どうなのだろうか。

脳死という状態でも、生きているには変わりない。

この問題は政治だけでなく、死と人の命の問題を再度考えないといけない命題ではないでしょうか。

古来、人にとって死というものは恐怖するものであったが、また、そのどうしようもない無力さの中に、死というものを思考したものが多く見られる。

阿弥陀如来来訪図、平等院など

阿弥陀如来来訪図には死の迎えにやってくる阿弥陀如来の姿が描かれているが、踊り子とオーケストラを引き連れやってくる。

結構、にぎやかで楽しそうな世界観である。


現代においては、医療技術の発達とともに、医療が万能であるかのように思われているように思う。

しかし、決してそうではない。

医療は万能ではない。


そもそも、生命とは何なのか。

人は生きていると思っているが、

人は多くの命を口にして、生かされている。

自分自身の命を支えるためにどれだけ多くの命を費やされているかということを産業革命と資本主義によって、

命さえも自己都合と感情論に走りすぎているのではないだろうか。


人の体にはおよそ60兆個もの細胞によって、構成されている。

しかし、その細胞のほとんどは新しい細胞が常に作られ、入れ替わっている。

その結果、およそ約2ヶ月~3ヶ月で新しい細胞に入れ替わることになる。

これから考えれば、自分は2ヶ月~3ヶ月で新しい自分に生まれ変わっていることになる。

しかし、一部はそうではない。

その一部とは脳細胞である。

脳細胞だけは新しい細胞をつくることを抑制されている。

このことから考えれば、自己というものは脳によって守られているようにも思える。


人の命を挟み、生と死がやり取りされる。

この問題は、人間が医療や、文明の発達によって、踏み込んではいけないエリアに踏み込んでしまったのではないかとふと考えることがある。

しかし、この問題はこれで終わりではなく、これから始まるのではないだろうか。

この法案で脳死の人たちの拒否権という言葉が使われているが、拒否権ではなく、生存権というべきところからはじめてほしいと思います。

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個性とはなんなのか、、、、、なんだろう。。。。

なかなか、難しい問いではありますが、

個性とは、個人主義とは違うように思います。


ん?


と思われる人は多いのではないでしょうか。


確かに、好き、嫌いというものはその人の主観によって判断されるものであるので、

他人がとやかく言えるものではない。


しかしながら、最近特に気になるのは、


無関心によって、社会が崩壊し始めているように思える。


なぜか、


人は一人で判断し、行動し、生きているような感覚に陥っているが、


実は


そうではないのだということを知らないだけではないと思える。


日本には、”人間”という言葉がありますが、

この言葉は本来、人が二人以上初めて”人間”といえるのです。

人は人間にあらず、人間は人と人の間に生まれる社会を表す言葉である。


また、地球上の無数に存在する生命というものの、人は一つに過ぎないのだという事実を忘れてはいないだろうか。

無数の生命の誕生と、絶滅の中に人が存在しているだけだということを忘れてはいないだろうか。


人には、三大欲が存在するといわれる。

睡眠欲、食欲、性欲、
人は記憶力を持ち、言葉を開発し、目を進化させ、

人は大きく進化し、文化を創り、文明を進化させ、歴史を持つに至った。

しかし、これらが大きくなるにつれて、人の欲望も大きくなり続けているのです。


これは、私の個人見解ですが、

人は欲望を満たす行為に至る際にほとんど思考を必要としない。

欲望を支配するために人は思考を必要とするのである。


そのためには、人を理解することに教育が必要なのではないでしょうか。

先人の人たちは、絶えず、自然の驚異にさいなまれ、魅了されてきた。

自然を知るための努力というものを怠ることなく、自然の前に謙虚であったように思える。


しかし、産業革命以降は人の自己都合によって、世の中は大きく変わってきたのでは無いだろうか。


その中で支配していく一つの価値観。


   優劣  という価値観

文明社会の、”優劣”という価値観


しかし、文化という自然の摂理に従順な自体は、その土地の気候風土によって

   差異  という価値観

文化社会の、”差異”という価値観


文化は自然に従順であるが、

文明は何に従順であるのだろうか。



従順なものを持たなければ、実は文明社会とはならない。

それは、野蛮社会になってしまうのです。


個性という言葉は大変難しい質問であります。

しかし、個性とは個性を認めることができる人が個性があるといえるのではないでしょうか。


これぞれの”個”という存在を愛おしく思い、認める力を持つことこそが

真の個性ではないでしょうか。

これは理想なのかも知れませんが、それに近づくことで、心豊かに過ごせるのではないでしょうか。



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母子加算復活は期待できる?

リンク: 母子加算復活は期待できる?.

長期政権は、精神腐敗を生み、制度不良へつながった。

いつの時代も同じことの繰り返しである。

今回の緊急経済対策をみてもわかるように、

金持ち優遇政策を露骨に、

その上、恥知らずの企業保護。。。。。

雇を守るといいながら、

売り上げでは貢献しているが、

有効求人倍率は、0.44   過去最低。。。。

失業率も急上昇するであろう。。。。。。

国民に唯一与えられた権利は、投票だけである。

この投票の権利行使により、完全な政権交代が起こらない限り、

この国は変わらない。。。

今回の母子加算の問題で、なぜ、少子化担当大臣は何も言わないのか。。。

世襲の大臣では痛みはわからないということか。

大していく一方の予算の中で、母子加算をきらなきゃならない理由はない。

企業の減税打ち切りや、箱物をペースダウンさせればいいだけの話である。。。

今の政権に対極的な判断はできない。

いや、できていない。

こんな政権を許していいものであろうか。。。。。。。

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教育を受ける権利と教育を受けさせる義務

第26条 [教育を受ける権利、義務教育] 
① すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償(むしょう)とする。

義務教育とは、保護者に課せられた義務である。

憲法には能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利があるといっているが、

現在の日本の状態では、教育は収入などに大きく影響されている。

これは憲法違反にはならないのだろうか。

いくら、憲法の中で教育を受ける権利が書かれていても、その権利を使えるところがなければ意味を成さない。

であれば、国として負うべき義務は権利を使える環境を作ることにあるのではないのでしょうか。

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車内のメイクはいけません。。。。。

コネタマ参加中: 女の人の車内メイクってどう思う?

車内のメイクはいけません。

特に海外では、娼婦と間違われます。

昔は、車内でメイクする人は見たことがなかったが、最近は当たり前のように

する人が多くなった。

それだけ、時間がないのだろうか。

確かに最近は時間に追い回されるような日々になって来た。

何か、寂しい気持ちになる。。。。

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