経済・政治・国際

“派遣切り”の責任はどこにある?

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経団連と、与党が中心に進めてきた。

国際競争力という大義名分によって生み出された問題だ。

下がり続けてきた労働分配率に対し、

経営者、投資家報酬は増え続けている。

しかも、生成優遇され続け、内部留保まで溜め込み、

何かあれば、という建前の文句は、

実行に移されず、

経営者、投資家のあくなき利益、お金、権力の追求は、

資本主義の大原則に従い、労働力の搾取を大掛かりにおもなわれ、

挙句の果てに、税金で値引きをするとんでもない政策実現を財界出身総理によって実現された。

それに、よって守られたのは、大手経営者と投資家だけである。

それによる増えた借金は消費税と言う形で、国民に付回すというのは蟲が良すぎるのではないだろうか。

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現実路線の民主をどう見る?

リンク: 現実路線の民主をどう見る?.

国際的な関係についての判断としては、慎重にならざるを得ない。

確かに政権の交代で不安になる部分も多い。

しかしながら、政権交代しないでこのままで行くことの方がもっと不安は大きい。

現与党からは財源の裏づけがないと言われるが、

当たり前ではないか、、、、、

なぜなら、財布を戦後握り続けた政権が一度も変わっていないのだから、

しかし、借金を増やし続け、

減らした実績のない政権のいえることではないのではないだろうか。

また、バブル以降の富裕層への優遇路線を続け、

挙句の果てに、消費税の増税が義務でもある可能ような演出は、

あいた口がふさがらない。

消費税が導入された理由は本来福祉などの充実とされていたはずであった、しかし、充実されたというよりは不安が拡大しています。

消費税導入は3%で1985年、1997年に5%に

片方で大企業などが収める法人税率89年に42%→40%に引き下げられた。

その後も90年に37.5%

98年に34.5%

99年に30%と引き下げられました。

これ以外に、研究開発減税、外国税額控除、受取配当益金不算入制度なども入れると、単純に法人税だけでは負担率はみることはできません。

消費税導入以来消費税の累計は188兆円くらいといわれていますが、この同じ間に法人三税(法人税、法人住民税、法人事業税)の税収は累計で150兆以上減っています。

大して家計は所得税の定率減税は

06年に半減、07年に全廃で約3.3兆円増税がされました。

この定率減税は99年に実施されましたが、景気が悪くなったための景気対策として行われました。

このとき、法人税の引き下げ、所得税の最高税率の引き下げと一緒にされましたが、

景気回復を理由に定率減税だけが撤廃され、

大企業、富裕層の減税分は継続されているのです。

結局、取り決めをする席にいないものが貧乏くじを引いているような形になっています。

これだけでなく、証券優遇政策によって、

2002年までは26%でした。

2003年に20%に減らし、

2007年までは10%%に減らし

暫定といいながら、ガソリンの暫定税率と同じようにづるづるといこうとしている。

また、消費税にはとんでもないカラクリがあります。

これは、消費税は輸出するものについて、原産地課税ではなく、仕向け地価税の原則から、消費税から輸出分が還付されています。

全体で約3兆円、上位10社で1兆円近く、還付されています。

これは消費税と連動しているため、消費税が上がれば、還付も上がる。

結局、経団連が消費税を社会保障のために上げるべきだという言論はこの裏が存在するからでしかない。

これらは、政権与党のやった結果なのです。

その評価を棚に上げないでほしい。。。。。

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民主主義とは

wikiから


民主主義(みんしゅしゅぎ)、または民主政 (democracy)とは諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。


と書き始められていますが、


近現代の民主主義として、


民衆による意思決定、権力の分立、自然権を前提とした立憲主義による民主主義は、あくまで君主政や寡頭政、独裁政よりもましな制度という批判は強く、そこにおいても大局観や広い視野、教養を併せもつエリートの存在が不可欠であるとされる。

と書かれていますが、

この文章の中にはエリートが不可欠とされているが、

現在の日本の政治腐敗はエリートの存在がないということではない。

このエリート思想こそ腐敗の現況なのではないだろうか。


知識、教養を持つことだけでは不十分なのではないだろうか。、

知識と教養はあくまで道具であるということを忘れている。

この道具を有効に使える人間が上記で言うエリートであるとはいえないのです。


君主制と民主主義について大きなちがいとしての認識についても、ほとんど理解されていないのではないだろうか。

議会制民主主義は多数決である、なんて一言を言っていた政治家がいたが、あいた口がふさがらなかった。

君主制と、民主主義の違いは、民衆の多数決によって選ばれた政権によって行われるものは、すべて民衆が責任を負わなければならないという一点である。

君主制のもとで行われた政治の失敗はすべて他人の責任とすることができる。


このことから、現在自民党の中で繰り広げられるゴタゴタは民主主義というものを壊している象徴であるように思える。


これは、日本だけのことではない。

G8からG20への流れも同じである。

先進国だけで今まで決められてきたルールを新興国などにも押し付けてきたのが現実ある。

それは、民主主義が資本主義によって影響されていたことが明らかになっただけである。

要するに民主主義的資本主義ではなく、資本主義的民主主義というべきではないだろうか。


民主主義というものもひとつの道具であるだけに過ぎない。

しかし、この道具の使い方をきっちりと教育していかない限り、このシステムを使いこなすには至らないのかも知れない。

そこにはエリート思想というもが介入しすぎれば、現在のような同じ失敗を犯すのではないだろうか。


wikiのエリートの存在は不可欠であるというのは、不必要で、
それよりも、責任を負う民衆こそが必要なのではないだろうか。

民主主義の民衆の意思決定は責任を負うこととセットでなければならない。


あえて、エリートを入れるのであれば、責任を負うエリートとすべきではないだろうか。

責任を負わないエリートは不必要である。。。。

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臓器移植法案、、、、、

法律によって、脳死を人の死と解釈できるようになった。

これによって、臓器移植を待っている人たちにとっては、

今後の海外移植の規制を目の前に控え、わずかながらの希望の光のように見える。

しかし、逆に提供する側にたたされる人たちにとっては、どうなのだろうか。

脳死という状態でも、生きているには変わりない。

この問題は政治だけでなく、死と人の命の問題を再度考えないといけない命題ではないでしょうか。

古来、人にとって死というものは恐怖するものであったが、また、そのどうしようもない無力さの中に、死というものを思考したものが多く見られる。

阿弥陀如来来訪図、平等院など

阿弥陀如来来訪図には死の迎えにやってくる阿弥陀如来の姿が描かれているが、踊り子とオーケストラを引き連れやってくる。

結構、にぎやかで楽しそうな世界観である。


現代においては、医療技術の発達とともに、医療が万能であるかのように思われているように思う。

しかし、決してそうではない。

医療は万能ではない。


そもそも、生命とは何なのか。

人は生きていると思っているが、

人は多くの命を口にして、生かされている。

自分自身の命を支えるためにどれだけ多くの命を費やされているかということを産業革命と資本主義によって、

命さえも自己都合と感情論に走りすぎているのではないだろうか。


人の体にはおよそ60兆個もの細胞によって、構成されている。

しかし、その細胞のほとんどは新しい細胞が常に作られ、入れ替わっている。

その結果、およそ約2ヶ月~3ヶ月で新しい細胞に入れ替わることになる。

これから考えれば、自分は2ヶ月~3ヶ月で新しい自分に生まれ変わっていることになる。

しかし、一部はそうではない。

その一部とは脳細胞である。

脳細胞だけは新しい細胞をつくることを抑制されている。

このことから考えれば、自己というものは脳によって守られているようにも思える。


人の命を挟み、生と死がやり取りされる。

この問題は、人間が医療や、文明の発達によって、踏み込んではいけないエリアに踏み込んでしまったのではないかとふと考えることがある。

しかし、この問題はこれで終わりではなく、これから始まるのではないだろうか。

この法案で脳死の人たちの拒否権という言葉が使われているが、拒否権ではなく、生存権というべきところからはじめてほしいと思います。

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教育を受ける権利と教育を受けさせる義務

第26条 [教育を受ける権利、義務教育] 
① すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償(むしょう)とする。

義務教育とは、保護者に課せられた義務である。

憲法には能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利があるといっているが、

現在の日本の状態では、教育は収入などに大きく影響されている。

これは憲法違反にはならないのだろうか。

いくら、憲法の中で教育を受ける権利が書かれていても、その権利を使えるところがなければ意味を成さない。

であれば、国として負うべき義務は権利を使える環境を作ることにあるのではないのでしょうか。

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ガラパゴス症候群、、、、、

ガラパゴス化する日本の製造業 Book ガラパゴス化する日本の製造業

著者:宮崎 智彦
販売元:東洋経済新報社
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進化論的に絶滅の危機とは、

外界との接触の極端に少ない世界では、特殊な進化が起こる。

そしてある日突然のように内の世界の動物は外界に適応できないため、絶滅の危機に瀕する。

外界の方が競争する生き物たちが多く、生存競争が激しいため強くなるからだ。

そのため、特殊な環境で起こる特殊な進化と

一般の進化のぶつかり合いが危機を生む状況になるのである。

これは、日本のほとんどの企業にも当てはまる。

日本は特殊な環境の価値観を訓練され続けてきた結果、多様な価値観に対応できなくなってきている。


日本固有の価値観は世界で通用しないことが、数多く存在する。


逆に考えれば、世界に通用する日本の中に眠っている価値観が数多く存在する。


これは、今までのような縦割り行政、縦割り業界、保守的な構造によって、

また、極端な物流と商流の偏った価値観が多くの価値を殺してしまっているとも言える。


進化論では、特異な環境での環境適応能力によって、適応しすぎることによって、危機的な状況が生まれる恐れがあるとされている。

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国と企業

国と政治の役割とはいったいなんのであろうか。

国は公益性の最大化を求められ、非営利団体である。

企業は利益の最大化を求められ、非公共団体である。


資本論による成果主義は、国とは別次元でなければならないと思う。

今回のリーマンショックによる経済対策を見ていると、

完全な企業保護、それも大企業保護である。

これは、雇用を守るという観点から、正当性を主張するがしかし、これには到底納得できるものではない。

なぜならば、1985年以降の所得税と法人税の度重なる減税、また、輸出の消費税還付によって、大企業を中心に保護ざれてきたといっても過言ではないからだ。

今回の経済政策によって、企業保護されているのであるから、

当然、消費税よりも先に、消費税還付を打ち切りは最低条件である。

これは、消費税の増税が先にされると、消費税還付まで増えることになり結局、それは大企業の利益の水増しとなるからである。

また、内部留保に対する課税。

これは、内部留保を確保することが、企業の聞き管理上必要だとされてきたが、結局、今回の派遣切りを見ても、それは働いていないといわざるを得ない。

その上で、法人税増税。所得税増税による調整は必要だろう。

これには、おそらくがんばった分の甲斐がなければやる気がうせると言う意見が多くを占めるが、

それには、憲法の勤労には義務を課せられた権利を有するという解釈をもう一度見直す必要があるだろう。

税金を納めることで、勤労がうせるのであれば仕事をやめればいい。

なぜなら、ほかにいくらでもしたい人がいるからである。
今回の、リーマンショックによって数々起こっている問題は、結局資本主義の労働力の搾取によって、未来に稼ぐはずのものまでも、取引によって利益とし、分配されたことである。

今回の金融危機は投機の過熱による欲望が起こした単純なものである。

お金が商品以上の利益を求めること自体が異常事態であったことを再認識すべきではないだろうか。

とにかく、国の役割というものは、経済界の人間が語るものではない。

それは自分たちの利益を最優先するからである。

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地球、環境、人口、文化

温暖化が問題?????

黒点の消滅によって、冷却化の可能性が出てきた。

二酸化炭素の排出量を減らす、そのために使えるものを新しく買い替え?? ??
何かおかしい、、、


エコ換え の本当の意味は エコ買え 



ではないのか。。。。。

そもそも、文化とは、気候風土、自然の摂理にあわせ、自分たちの生活を合わせる中で生まれたものが文化ではないだろうか。

また、伝統は創造し続けることである。

これからの地球上で起こる問題は文化という概念によってクリアされるのかも知れない。


しかし、現代の経済活動のなかで、環境問題を考えると何か変な感じがしてならない。

地球温暖化自体がビジネスワード化し、環境にいいことをしましょうといいながら、エコバックを配る??

それって、意味有るの?

リサイクルしたものは環境に良い?
ごみイコール原料とするならば、需要と供給が一致していないと成り立たない。。。。

リサイクルのエネルギー効率を考えれば、やはり、長く使うことが環境にいいのは明白なのだから、消費社会からモノを大事に長く使う社会へ移行する必要があるのでは、、、、

日本は、石油消費社会と共に大量生産大量消費で、物の価値がなくなり、環境汚染を進めたのではないのか。。

と考えがちなのは資本論の呪縛につかまった考え方なので、ここでおしまい。

そもそも、温暖化が人為的なものなのか。

すべての環境異変を温暖化につなげることであおっているのではないか。。

地球環境を守るという観点で考えれば、人の存在が環境を悪化させているのではないか。

何か納得できない自分がそこにいる。。

私も真剣に環境に対して考えたことがあるが、結局、人間の否定にまで行き着いてしまった。

西暦   0年  2億人
西暦1000年  3億人
西暦1650年  5億人    大航海時代
西暦1800年 10億人    産業革命
西暦1900年 20億人    石油消費社会へ
西暦1960年 30億人
西暦1999年 60億人

西暦2050年には100億人に到達するといわれている。


本当の問題は人口問題ではないのか。冷や汗


1970年の「成長の限界」という本による、

100年後に人間の成長の限界がやってくるという研究発表。

人口の増加

  ↓

食料の必要量の増加

  ↓

鉱工業製品の増加(文明的な生活をするため)

  ↓

資源消費が進む

  ↓

環境汚染が進む


温暖化についても、いろいろ調べたが、寒氷期、氷期のサイクルの中で、地上に氷床が存在するほど寒い状態は氷期とされている。

地球自体の営みの中に人が翻弄されているだけではないのだろうか。

二酸化炭素に代表される温室効果ガスが360PPMを越え、増加傾向にあるといわれているが

これは本当に人間の作り出した影響だけのでしょうか。

http://env01.cool.ne.jp/ss02/ss025/ss0253.htm
から抜粋

 ここ百万年の地球では、氷期と間氷期が周期的に激しく繰り返され、ヨーロッパでは、平均気温で6~10度変動しました。これは東京と北海道の気温差に相当します。この時、二酸化炭素も同様に変動し、氷期に180ppm、間氷期に280ppmでした。ですから、二酸化炭素が関係していたことは確かですが、その直接的温室効果だけでは、この気温変動にはなりません。また、その引き金は、ミランコヴィッチ周期といわれる地球の軌道要素が十万年、四万年、二万年の周期で変動し、日射の季節変化緯度変化が変わることでした。それを地球システムが気候変動に拡大しました。さらに、これ以外に、短周期の変動もあります。


本当は、二酸化炭素が増えるから、温暖化するというのではなく、気候変動が二酸化炭素に影響しているという考える方が地球の気候変動から考えれば納得がいくように思います。

しかし、現在の大きな流れは非科学的な不確かなデータの積み上げにより、金融まみれになっているようにしか見えない。

温暖化することで、生物の生態系が変化し、伝染病が広がる、植物などが死滅するなどの話も有るが、

それは現在の人類の存在すらも、否定しているのではないだろうか。

人類の存在は地球の気候変動による生態系の変化の中で、生き残る工夫をしてきた進化でしかない。

それを人間の自己都合的な解釈で、この環境を維持しようとすることにどんな意味があるのでしょうか。

また、増えていく人口をとめずに自然減という状態はおそらく可能性として低いように思われる。



であれば、人為的に人口を減らすのか。。。。いや、いや、



減らさないのであれば、環境変動に適応してきた知恵と努力によって、環境に左右されない人類の繁栄する未来を創造するべきではないのだろうか。

いっそ、世界中の防衛費を集めて、30年後に月に住むという方向に世界共通目標を持つことで、

平和と希望と夢を手にいれらるのではないだろうか。

人類の発展の源である知恵を持って、環境適用能力を高めていくことで、自然に戦いを挑み続ける選択も有りではないのでしょうか。

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聖徳太子が消えてから、、、、、

日本の紙幣から聖徳太子が消えてから、

本当に日本はおかしくなっている。

1万円札から聖徳太子が姿を消したのは、1984年11月のことである。

その後、1985年には、プラザホテルで行われた、プラザ合意において、

ちょうど、アメリカが、財政赤字、貿易赤字の双子の赤字に苦しめられていたころ、

日本は貿易黒字拡大により、莫大な収益を上げていたが、先進国から、高度消費社会へ移行することを迫られ、日本円の世界市場流出を制限された。

そこで、日本は大蔵省主導のもと、公共事業を頻発し、それに合わせて、住宅専門のローン会社、住専をつくり、

土建バブルの幕開けとなった。

これにより、公共事業の数が異常に増え、土建業比率が異常に高くなった、その裏で、ゼネコン、住宅メーカーが、急成長し、巨大化した。

このころから、核家族化が進み、地域性の崩壊、和の文化の崩壊へとつなっがったのである。

結果的にバブルははじけ、そのころには地域性の崩壊により、セーフティーネットは崩壊して、役に立たなくなってしまった。

ある種、偶然であろうか。しかし、偶然ではないような気がする。

人は、刺激欲求に支配される悲しい生き物である。

そのため、人は刺激欲求を理性でコントロールしないといけない。

行政のサービスがさっがって行きながらの税収アップは、構造上の欠陥であり、許される物ではないと考える。

巨大化した目に見えないピラミッドはより上のほうへ栄養を集中させるため、より多くの栄養を必要とする。

ダーウィンの進化論の観点から、環境変化に耐えるためには巨大化は逆行していると私は考える。

巨大化すればより多くの栄養が必要で、その結果、栄養を大量に消費していく。

これからの環境変化に対して、日本人同士の和に対する考え方を復活させるためにも、

福沢諭吉ではなく、聖徳太子に帰ってきてほしい。

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